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メッセージ

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 安吾の私小説論によると、作家自身の身に付いていない客観小説にいくら労力をつぎ込んで大作を書き上げたとしても、たった10〜15行の随筆だか私小説だかわからない、身に付いた小文に力で劣ってしまうのは、私小説と言うだけで、すでに自分の人生が、自分にしかない人生が、身に付いて表現されてさえいれば、それだけで、すでに相応の力があり及第点は取れていると言う事。私小説でありながら力のないものはすでに、論外である。そして、真の傑作は客観小説の中から出現するものであるとも書いている、ドフトエフスキーがまさにそれだと。しかし、ドフトエフスキーの作品を私小説だと言ってしまえば、全ての小説は私小説になってしまうとも、言っている。安吾は私小説の強さを充分に理解してこう言っているのだと思う。それは作家の意地でもあるだろう。私小説であると言うだけで、すでに及第点が取れている、そして、完全なる想像の産物の中にこそ、人間の表現しうる真の傑作があるのだと安吾は言っている。自分はなにを見ても読んでもすぐ、写真の関係性に置き換えてしまうのだが、しかし、文章であれ、写真であれ、完全なる想像の産物など、有り得るのだろうか。また、完全なる私小説も有り得るのだろうか。人は、想像と現実の狭間を行ったり来たりしている、ただそれだけの生き物ではないだろうか。安吾の言わんとしている事は、自分なりには理解できるのだが、現代の人間、いや、人間と言う生き物自体、正気と夢が同居して生きている生物なのだから、客観小説と、私小説の区別はあるとおもうが、人は、夢を現実に体感したいと望んでいて、現実の様な感覚を夢でもう一度経験する。普通に道を歩いてい様々なイメージが頭をよぎる。私写真と言うだけですでに相応の力量が備わった写真は誰にでも今すぐ撮れてしまうわけだが、自分が見たいもの撮りたいものは、どちらかだけではない、夢だけでも、現実だけでも。両者が入り乱れているもの、現実のもう少し先にあるものだと思う。


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生きる 死ぬ はとっても身近な出来事

アーティストでいたくてもいられない人達の為にも 表現を していてほしい

簡単な言葉 でも日常の 人の言葉 です 才を持つひとも 隣の人間も 心臓を脈打つ生き物 それを伝える人だから 頑張ってくださいね

| 依田梓 | 2011/08/28 12:52 AM |

BLOCCO(ブロッコ)と"PELO(ペロ)のキャンペーンがついにスタートいたしました!
| ボッテガ アウトレット | 2013/12/26 1:15 PM |










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